目上の説教

自分をガミガミ説教してくる目上の存在は、小さい頃や社会人になり始めた人にとって鬱陶しく感じることでしょう

私もそうです

10代半ばあたり、中学生臨時講師として教鞭を振るっていた先生が、あまりに説教や長ったらしい訓話を垂れてくるので思わず舌を3度も打ってしまいました

皆さんも1度は経験したことがあるでしょう

社会経験というものは、そうした教師や顧問、先生らのコーチングを通して育まれるものだと

感受性豊かな社会経験は、やはりそれなりの場数(経験)が必要です

例えば、社会的な道徳や規律、モラルを遵守する人は、目上から悪いことは悪いと言われて、初めて善悪の判断がつくのです

犯罪に手を染めてしまう人は、そうした目上の存在からの折檻をまともに受けてこなかった人たちです

私は学校という”学びの場”を、社会経験を育むための教育施設とは認識しておらず、社会に漕ぎ出す若者にとっては、むしろ有害な場所であると思っています

学校では、集団行動を強要したり、教師による上から目線の説教が実に多いです

説教にも様々ありますが、例えば「なんでこんなこともわからないのか」と、生徒だけ一方的な非があるように捲し立てるのは、むしろ生徒たちの人格形成にマイナスの影響を与えてしまいます

ちなみに自分を説教する”目上の存在”というのは、年代が降るにつれ、徐々に減ってしまいます

例えば、私は現在20歳ですが、これが50歳にもなれば、自分を説教してくれる存在は、60.70.80歳くらいの年代に限られてしまいます

そもそも20代と50代とでは、社会経験の差が違います

20代は社会の荒波にのまれ、1番辛酸をなめる時期です

苦労な経験を重ねてこそ、豊かな社会経験が育まれるのです

学校という教育システムは、その”豊かな社会経験”の育成を、むしろ阻害する場所だと思っています

整列や服装規定、運動会、合唱コンクール、修学旅行など1年を通して行われる大規模なイベントは、いずれも「集団での行動を心がける」「和を大切にする」「みんなと合わせる」という3つの共通項を見出すことができます

合唱コンクールでは、指揮者の顔を見て、合いの手を入れて、みんなと音程を合わせる…という、なんともカルトじみたことをします

修学旅行では先生の引率に従って、整列を組み、定例時にちゃんと3食をとって、決まった時刻に就寝します

このような規則正しい生活を強要することが、果たして生徒たちの”豊かな社会経験”の醸成につながるのでしょうか?

私は否と考えます

それは明らかに束縛された生活であり、生徒たちの自由を奪うものだと思っているからです

人生はスタート地点から終着地点まで、常に1つのレールで繋がっているわけではなく、その途中には様々な障害物が待ち受けているのです

人生には何があるかわからない、時間も行動も束縛された環境下では、生徒たちの自由を奪うだけでなく人生自体が設計図のようにフォーマット化されてしまうのではないかと危惧しています

人生に設計図などありません

建築設計図とは違うのです

何が起こるかわからない、そんなイレギュラーさや流動さが、人生における最大の醍醐味じゃないですか

突然幸運が舞い込んでくるかもしれないし、逆に不幸が訪れるかもしれない…

でも、そんなスリリングな経験の積み重ねが、人生における1つの豊かさを生み出しているのだと思うんです

例えば建築の設計図はあらかじめフォーマット化(定型化)された、1つの完成形です

そこにある種の「付加価値」を足すことはできません

しかし人生は自分を無限大に高めることができる、バラエティ豊かなものなんです

友達をたくさん作ったり、自分が1度も経験したことがないようなスポーツに挑戦したり…

親の言いつけでこうなった、先生が言うからこうする、国の方針には従うしかない・・

そんなの「受動的」じゃないですか

だからなんの行動もアクションも起こせず、言われるがままの人生しか送ることができないのです

先ほどあげた”目上の存在による説教”は、そういった堅苦しい規則やルールを強いる鬱陶しい存在のように見えますね

しかし、説教の仕方によっては、子供たちの”豊かな社会経験”をより育むことができるんです

それは押し付けがましい説教にならないことです

1番悪い例は、ドラえもんのび太ママですね(笑)

そして1番いい例は、旧ドラえもんによるのび太への説教です

自分の年齢が上がれば上がるほどそうした自分への説教もおのずと減ってしまいます・・

それを20代のうちに噛み締めてしまった、哀れなり僕個人による一日記でした

最後まで読んでくださりありがとうございます