正義

ーー概要 

正義とはうわべだけの理想論を振りかざし、自身の行いを正当化するという、通念的な言葉である。正義とは何か?という普遍的な問いに対し、岸田総理は「自らの職務を果たすこと」と解釈すれば、ONE PIECEでは「正義なんてのは、立場によって形を変える」という大局的な解釈を試みる者までいた。言ってしまえば、正義の形は定まっておらず、時と場合に応じて変化するもの。理想論はその正義の延長線上にもあるといえ、正義→自己主張→理想論に発展・・という段階的なアプローチを経て最終形態に移行する。その形は明確になっていない。人によっては四角形かもしれないし、台形かもしれないし、チュパカブラ形かもしれない。あるいは自分の中だけにある「机上の空論」のようなものかもしれない。その形を具現化するには、正義という名の”言葉の武器”を実際に行使する必要がある。栄えある第1回目の使用者はマイケル・サンデルである。

ーー正義の定義

しかしそうは言っても正義の定義なんてのはピンとこないだろう。正義論を唱える者は概してピントの外れた世界観を治すため、近代史における正義観念論に一石を投じ、独自の哲学を展開した。その代表的な例が「正義論」そのものを展開したジョン・ロールズである。ここで注意書きを少し加えておくが、ここから先に登場する哲学者はどんな崇高な理念を持っていようが、完全に正しいと言える定義は存在しない。正義という曖昧な問いかけに対し、様々な定義づけを試みたのがジョン・ロールズというだけのことである。

例えば、社会的に良しとされる行為(募金や寄付などのチャリティー、慈善活動等)は多くの人から認められ、褒められる傾向にあるが、その寄付という行為が果たして善意に基づいた行動なのか、あるいは多くの人に注目されたいから、という野心的な考えからくるものなのか、そこは本人のみぞ知るところである。しかし、正義というのは社会的に良しとされる行為そのものを指すのか、あるいは自分が良しと思う行為が正義に該当するのか、それも曖昧なところではある。権力者や為政者は内戦や外敵を煽り、戦争に多くの兵士や自衛隊を駆り出して戦争を始める。それが理にかなった行為かどうかは当事者の判断に委ねられるが、利を追求した結果ゆえの正義であれば、当事者にとっては「良しとされる行為」なのだろう。

一般的に戦争やテロなどの国家を巻き込むような出来事は「絶対悪」として認識されるが、日本政府に失望し終末論を信じたテロ組織が自分たちの力で国家を変えてやる!という挑戦的な理由からサリン事件を引き起こした⚪︎ウム真理教事件もそうだし、NATOへの非加盟を拒否したウクライナに対しロシアが武力行使に出たのは「属国であるウクライナがロシアに刃向かうことがないようにするため」という正当防衛論からくるもの。それが正義にかなっているかは別として、それぞれが正義という名の哲学を持ち、それを実行に移した・・という例は上記の2つ以外にも数えきれないほど多くあるのだ。

では正義の定義というのは一体なんなのか?そもそも正義に定義なんてないのでは?と思う方もいるだろう。Google検索で調べてみると正義とは「正しい道理。人間行為の正しさ。」と定義されている。

正しい道理というのは、例えば先ほど挙げた寄付や募金など、社会的に利益(プラス)となるような行為を指すのだと思うのだが、それが利益になったかどうかは誰もわからない。こう言ってしまえば身も蓋もない話になるのだが、寄付したお金は遠い国の貧しい子供たちに行き渡るかもしれないし、義援金の担保にされているかもしれないし、政府への納税になっているかもしれない。どれが良いのかは別として、貧しい子供たちにお金が行き渡るならそれは「正義」と言えるのだろうか?今はOECDなどインフラが整っていない国に対する支援機関が設立され、多くの寄付が上乗せされている。しかし中にはいじわるな団体もいるようで、無償支援ではなく利息を払いながらの返済・・という条件を課すところまであるのだ。

しかし考えてもみたまえ。その支援金はどこから行き渡っているのか。もしかしたら元々貧しい国がなけなしの予算を削って支援したものかもしれないし、支援国を活性化させ協定や国交を結ぼう、という野望的考えからくるものかもしれない。しかしそれもこれも含め、”当事者にとっての正義”なのだ。明確な形はないと言った通り、双方の合意形成のもとに成り立っているのならば、それは正義として認識されるべきなのである。ではジョン・ロールズは何がきっかけで正義論を展開したのか?当然、正義というものは定義なしでは語れぬもの。ジョン・ロールズが定義した正義論は一体何を指し示していたのか。

簡潔にいってしまえばそれは「多数決原理を排し、0からの環境を整えることで公正・平等な社会が実現される」というもの。その原理の1つに「無知のヴェール」というものがあり、社会的に置かれた環境や立場は人それぞれ異なるため、一律に平等な社会を実現することは難しい。そこでロールズは生まれた環境そのものに人生が左右されるのならば、その生まれ持った環境そのものを原子レベルから変えるべきだ、と主張した。例えば、貧困層と富裕層の二極化は良い例であり、貧困層が増えるのは富の分配や支援のあり方に問題があるからだと考え、社会全体の制度そのものを変えなければならないとした。ここでくると社会的な批判や糾弾も辞さないほどビッグバンな考え方であるが、つまるところの正義はそういうことだ。当時は功利主義者にひどく批判されたが、ロールズは晩年一貫して自分のスタンスを崩すことはなかったという。ちなみに功利主義というのは「最大多数が考える幸せの総和が社会のあるべき姿」と定義する思想であり、まさにジョン・ロールズが批判した多数決原理に通じるものがあるのだ。

ーーONE PIECEでいう「正義」

アニメのONE PIECEでは海軍が掲げるモットーとして「正義」というものが登場する。正義と背中に刻印されたコートを羽織り、悪事や蛮行を働く海賊に対して正義という名の鉄槌を喰らわす・・というのがONE PIECEの基本理念のはずだ。青キジは「だらけきった正義」。赤犬は「過激なる正義」。黄猿は「どっちつかずの正義」というそれぞれの理念を掲げて任務にあたっているが、みなさんはどれが1番まともな考え方に見えるだろうか?これには正解はない。「だらけきった正義」というのは、過激な任務に当たる赤犬の思想に反目する形で、青キジが掲げたもの。赤犬の「過激なる正義」というのは、右も左もない、とにかく悪の殲滅に尽くすのみという、ある意味で1番ブレない理念と言える。「どっちつかずの正義」はよく言えば中道だが、悪く言えばブレブレ・・ということでもある。

ちなみに上述した「正義なんてのは、立場によって形を変える」というのは青キジの言葉であるが、やはり1番これが本質をついていると言っても過言ではない。本当にざっくり言ってしまえば「正義に定義も基準もないですよ〜」という、全ての意味を凝縮した名言とも言える。やはりONE PIECEは奥が深く、エモい。そういう意味で、教訓的なアニメとも言える。皆さんもこれを機に正義の定義とは何か?という普遍的なテーマを深く考えるきっかけを作ってほしい。何が善か悪か、そもそもそういった「善と悪」という二元論で語るのが間違っているのか、前提を変える必要があるのか、様々な想像がめぐることだろう。