生命の連続性

ーー生命とは

 

私たち人間は、(例外を除き)5体満足で生まれ、この地球という惑星に誕生しました。

手足などの四肢はくねくね動き、目などの視覚情報を通してそのモノの性質や特性を把握する。

「目は口ほどにモノをいう」という諺の通りです。

私たちの生命は、母親の体を通して誕生します。

母体に受精卵が生まれ、着床を始めると徐々に出産へと近づいて行きます。

いや、出産というより母親の体のなかで現代でいう人間に近い姿形に変貌していくのです。

しかしそれは人間に限った話で、他の昆虫や動物などの生命体は、私たち人間とは似ても似つかない異形の姿で生まれてきます。

蝿であれば羽があり、吸血針のようなもので自分の体に栄養素を取り入れます。

クマであれば、小動物などの獲物を食べ、成長していきます。

また、人間と違って自発的に雌クマとやった着床をストップ(あるいは遅らせる)ことができるのです(着床遅延)。

人間の話で言えば、人工中絶でしょうか。

それを産婦人科などの器具を通さずにクマ1匹の意思でこなせるというのですから、体の作りや構造が根本的に違うんですね。

まあ、ここまで書くと生物多様性の話になってきますから、その辺は人類科学者にでも相談したほうが早いかと思います。

しかし、動物も人間も、生命が終える=死ぬ、という根本的な意味合いは変わりません。

寿命が尽きれば動植物問わず死にますし、人間だってそれは同じです。

耐えがたい外傷を負い死に至る場合、それも動物人間同じです。

生命という、その根本的な原理は全く変わらないのです。

もちろんそれは誰もが当たり前に知っていることですが、その生命の起源を辿った人は少ないでしょう。

生命とはそもそもどこで誕生したのか?という普遍的な問いに、私たち人間は異口同音に共通の答えを導き出すことはできるのでしょうか。

 

ーー生命の始まり

 

生命の始まりは、一般的に地球が誕生してから何百万年も後のこととされています。

古来人間が住む原始時代は、まだ未開拓の土地を広げて畑や稲などを耕していた時代です。

それが何百年も降り、アナログからデジタルな現代社会へと発展していきました。

つまり先人の努力によって、今の日本が形作られてきた、と言っても過言ではありません。

そこで考えてしまうのが、「人類の消滅(絶滅)」。

ここまで人口が増加し、社会が発展してきた日本において、絶滅という言葉もそう馴染みはないでしょう。

絶滅を悪い意味にとらえているのではなく、人類が絶滅した後、地球はどうなるのか考えたことはあるでしょうか。

今でいう原始時代は、我々にとっての”昔”です。

ではその”昔”は、本当に人類史において1回しか訪れなかったのでしょうか?

否。私はそうではないと考えています。

実は我々がいう原始時代の前にも現在のような発展した社会があり、人々も暮らしていた。

だが何らかの理由で人類の生命が途絶え、再び荒野と化してしまった。

そして何億年の時を経て再び生命が誕生し、人類による開拓が始まった、と。

つまり本当は歴史は繰り返していて、我々が生きるこの世界も、その繰り返された歴史のうちの1つにすぎないと思っているわけです。

まあ、そう考えると気の遠くなるような歴史の繰り返しなわけですが…。

 

そういうことを風呂場で体を清めている最中にふと思ってしまった僕です。

ふと思ったことをブログに書いていくので、少し非日常的なテーマが多いかもしれません。

まあ、あくまで勘ですよ勘。

人間の直感、ってヤツです。